こころのみちの物語
祈るということ
人は、なぜ祈るのだろう。祈らずにはいられないのだろう。
宮城県山元町で、東北お遍路のポイントにと、戸花山を推薦してくれた庄司アイさんに会った。その場所に案内してもらった。最初、そこを見たときは、特別ふさわしい場所とも思えなかった。
しかし、庄司さんは、そこに立った瞬間に大粒の涙をこぼして、私の手をしっかり握った。
「お願いします。この場所を東北お遍路の巡礼地にしてください。この場所で、私たちは念仏講をしていたのです。先祖からずっと何百年も、ここで、家族の、地域の、安全と幸せを祈ってきたんです。
念仏講の建物は津波で流されてしまいました。多くの遺体がここで発見されました。
どうぞ、ここを巡礼地にしてください。何もなくなってしまって、手を合わせる場所がないんです。お願いします。手を合わせる場所を作ってください」
そうか。手を合わせる場所か。別に、祈ろうと思ったら、どこでも祈ることはできるのに、それでもやはり祈る場所が必要なのだ。皆で祈る場所が必要なのだ。
心静かに手を合わせ、こうべを垂れる。すると不思議なことに、ここは祈りの場所にふさわしい場所だと思えた。
人は、死んだ人のために祈るのかもしれない。でも、祈ることは、死んだ人への慰霊の気持ちと同時に、生きている人の心の平穏のためのような気がする。悲しみを癒すためのような気がする。生きている人と、死ななければならなかった人とが、まだ繋がっていることを確認するためのような気がする。
東北お遍路は、慰霊と鎮魂という亡くなった人への供養の道だけれど、生きていく人、生きていかなければならない人にとって、足を前に出す力を貰える道になると思う。
東北お遍路の巡礼地は、外から巡礼に来てくれる人はもちろんのこと、地元の人にとっても大切な場所なのだ。
いつか、津波で消失した念仏講の建物が再建されることを願う。
(文責:村上美保子 一般社団法人東北お遍路プロジェクト理事)