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浪分神社(仙台市)Pilgrimage site

天保期に、慶長の大津波が二つに分かれて引いた場所に稲荷社を移し、津波よけの神社とした。この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説がある。
◇こころのみちの物語
「仙台平野の再生…。穏やかな暮らしと向き合うには」

2011年3月11日の東日本大震災から丸4年を経過し、災害の残像が残る限界年とも言われる5年目に入っている。
この間、数多くの震災報道と復興報道が取り上げられてきたが、被災地以外での感覚はどうだろうか?といつも頭をよぎる。

東日本大震災で被害を受けたエリアは広大で、いくつもの地域をまたがっている。

ニュース報道で多くの情報が飛び交っているが、どうも三陸の漁業地域と東電事故のあった福島の情報ばかりが誇張されているように感じられる。(実際のニュースソース本数でも多かったと思ったが。)

宮城県の県庁所在地・仙台市が属する仙台平野も、甚大な被害を受けているのだが、記憶に留めて頂いているだろうか?震災当日は、仙台空港や名取川を遡上する津波に多くの人や車が飲まれる映像が生々しかったのだが、それさえどこまで記憶されているかと思えるほど、記憶が薄れているように感じる。

仙台平野は、東から多賀城市、仙台市、名取市、岩沼市、亘理町、山元町まで4市2町が存在する。そして、お隣福島県の新地町、相馬市、南相馬市なども一連の地域とつながる広大なエリアだ。
このエリアは近年の津波災害からは無縁といっていいエリアだった。
明治、昭和の三陸地震やチリ地震津波でも大きな被害の記録はない。
遡ると、1611年の慶長地震の記録に仙台平野に大津波が襲ってきたとの記録があるが、地元でもその存在を知るものは少なかった。
その痕跡を語る寺社として、仙台市若林区に浪分神社があるが、震災前は伝説的な言い伝えとして語られる程度だった。
しかし、改めて地域の歴史を紐解いてみると、大きな被害を受けていたことが明らかになった。

今回の津波被害では、4市2町にまたがる地域では40000人近い方々が津波の被害地域に暮らしていた。
その方々の生活基盤を一瞬で飲み込んだ災害は、地域の地盤を変え、暮らしを一変させ、生活基盤を失わせたのである。
と書いてみると、自然災害の側面から見た記録になってしまうのだが、そんな大きな災害が起きた海辺にも、多くの暮らしの基盤が成立していたということも考えさせられた災害だったと思う。

仙台平野の浜辺は、慶長年代の1615年ごろから伊達藩初代藩主正宗公による藩内改革事業として手がけられた蒲生干潟干拓事業や現在の貞山運河開拓事業から開発されてきた歴史が見える。
詳しくは割愛するが、それまで仙台平野の海辺は湿地帯エリアとして住むにも農業を営むにも漁業をするにも向かない土地だった。それを、多くの知性と政策によって、人々に豊かな暮らしを営む土地に変貌させていったようだ。

震災前、仙台市以南の海辺には4つの漁港が存在した。
山元町・磯浜漁港、亘理町・荒浜漁港、名取市・ゆりあげ漁港、そして仙台市・仙台新港漁港だ。
中でも仙台市の漁港は、工業港化した仙台新港の南端にある小さな漁港だが、仙台湾の豊富な魚種が水揚げされることと、赤貝の水揚げがある漁港だ。
赤貝は、名取のゆりあげ漁港が有名だが(地元ではだが)仙台湾でも結構な水揚げがある。

津波で地域全体が被災し、多くの犠牲者も出した仙台市の荒浜地区(深沼地域)にこの地域唯一の漁師である佐藤吉男さんがいる。
吉男さんとその家族は、何とか無事に生き延びたものの、地域全体が居住禁止区域にしていされ、同じ土地での生活再建の道が閉ざされてしまった。
吉男さんは、漁師としての誇りと自信を持ち、震災直後から気丈に海に出て家族の生活を守り続けてきた。

吉男さんが暮らしていた深沼地域には、かつて珍しい浜漁港があり、地引網を中心とした漁業で賑わっていた。
仙台新港の開発や社会基盤の変化に淘汰され、閉鎖されて久しいが、深沼地域唯一の漁師として漁を続けてきた吉男さんにとっては、漁師を捨てることは出来ない。震災後、元の自宅跡に自力で作業場を建て、深沼を拠点として漁師として生きていくことを模索し続けてきた。吉男さんは「漁師は朝起きて海の状態を見て、今日の漁を判断する。海の側でないと生きていけない。」と、現地での再建を切望している。

海辺で暮らし、被災した方々にはいろいろな意見がある。
津波被害への不安から、内陸へ移住する方もいれば、海辺の暮らしを継続することを切望する方も…。

行政は、多くの被災地域を居住禁止エリアに定め、定住を認めていない。
そんなエリアでも、多額の予算が注ぎ込まれ巨大な防潮堤が造られている。

それまで営まれてきた海辺での暮らしには、自然と向き合い、たおやかに営んできた暮らしがある。そんな暮らしの選択が災害をきっかけに他者の手で強制的に閉じられるのは地域の魅力や多様性を失ってしまうようで、やるせなさも感じる。

海を愛し、海辺で暮らしてきた人々の思いをつなぐ方法を活かされた私たちは模索し続けていかなくてはいけないのではと考えさせられる。

仙台市若林区荒浜の浜辺に、犠牲者の魂を鎮魂する慰霊塔が建てられている。
海を愛し、無念の思いの中で犠牲になられた方々を偲び、自然と共存するたおやかな暮らしを望みたい。

(文責:一般社団法人東北お遍路プロジェクト理事 高橋基)

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