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宮城県慶長使節船ミュージアム(石巻市)Pilgrimage site

復元船建造以来、この地で誰も経験したことのない未曾有の大地震・大津波にも果敢に耐え、大航海時代の荒波にも耐えうることをこの復元船は証明したのです。慶長使節の偉業を世界へ発信し、慶長使節に関連する記憶の継承と、被災してもなお立ち上がる館の姿を、多くの方々にご覧いただき語り継いで欲しい。

◇こころのみちの物語 「陸前沿岸の参詣者と巡礼地(伊達政宗時代を中心にした)」
東日本大震災から5年目の今年、"被災地お遍路プロジェクト"の一角に、400年前に敢行された慶長使節の歴史や文化、伝統を調査研究、展示、解説する宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)が、被災した経緯もあって加わることになりました。
このいきさつに関連させて、ここでは歴史、宗教史につながる話を紹介してみます。

西暦1600年の年末に仙台に城と城下町の造営を決めた伊達政宗の仙台藩は、それから熱心な国づくりを展開して、62万石という大藩を築き上げていきます。
その年の9月に関ヶ原の戦いが行われて政宗が属していた徳川方が勝利したことによって、長い間続いた戦国の混乱から抜け出て安泰を目指す時が訪れます。このような時代を迎え、人々のさまざまな不安や悲嘆をぬぐい去るために実施されたのが、神社仏閣の建設や聖地の再認識でした。

古代以来聖地、名刹の名をほしいままにしていた松島瑞巌寺は政宗の国づくりの一環として、領内寺院の筆頭のようなかたちで1609年(慶長14)に落成しています。古代・中世のこの寺には遠くは中国や朝鮮から渡来の僧、国内各地からの宗教家や公家、文人たちが訪れており、神聖な地としての位置が確立されていました。

伊達政宗が、戦いや凶作が続いた戦国時代に荒廃した伽藍を再興させて、堂々として雄大な姿をみせて間もないこの瑞巌寺に、南蛮と呼ばれた国のスペイン出身であるセバスティアン・ビスカイノと名乗る大使が、同じ国の神父であるフライ・ルイス・ソテロとともに訪れたのは、1611年11月のことでした。
この時二人は瑞巌寺の僧侶たちと会見し、宗教問答を繰り広げたりしていますが、二人の目に留まったのが、多くの参詣者たちでした。ビスカイノの行動を記録した「金銀島探検報告」ではこの状況を、次のように伝えています。

 "松島で泊まり、寺を見学した。それはこの人々の教会というべき寺院で、この領地にある最も壮大な建物であるために、王(伊達政宗)は司令官にそれを見学するように勧めたのだ。
わがイスパニアで言えば、ガルシアのサンチャゴかエルサレムのように考えられていて、巡礼にきわめて大勢の人が来ていた。ミサが行われ、ご聖体が安置された教会のようで、遠方から人々が集まってくる甲斐があるのだ。彫刻や細工仕事では思いつく限り最も素晴らしく、この世で石のスペインエスコリアル、木の松島に並ぶものはないと言ってよいだろう。

ここでは聖地松島の瑞巌寺を目指して多くの人々が遠方から巡礼者のように集まり、政宗が述べているるように"後生菩提を願う"ための祈りをささげているのです。
困難で失った亡き人を想い、家族の平穏を願う参詣、巡礼、遍路の中枢がここにあったことがわかるでしょう。この瑞巌寺と並んで再建された奥州一之宮鹽竈神社にも多くの参詣者が集まったことは、記録や絵図が教えてくれるところです。「鹽竈・松島」はみちのく有数の聖地と仰がれて、領内の人々ばかりではなく各地からも篤い思いが注がれるのでした。

江戸時代中期からは、「鹽竈詣」、「松島詣」をはじめ「金華山詣」、「平泉詣」などの参詣、遍路が様々な方式で実施されることになります。

サン・フアン館の400年前の先人たちがはるかヨ-ロッパまで遣いした歴史を伝える立場から、ひとつ紹介しておきたいのが、異国の聖地であるバチカンへのキリシタン巡礼者がこの地から船出したことです。
異国の聖地巡礼や洗礼を受けるために、仙台、鹽竈、松島を経由して集結したのです。彼らのメキシコ、ヨ-ロッパでの信徒としての行動は、まだわかっていないことも多いのですが、慶長遣欧使節全体の目的のために果たした役割は重要なものがあります。
今後、陸中沿岸で実践された参詣や遍路、巡礼の様相が更にあきらかになることを願っています。


【宮城県慶長使節船ミュージアム館長 濱田 直嗣】   

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