気仙沼の岩井崎にも大津波が襲いかかり多くの尊い、大切な命が失われたが、大波逆巻く岬の先端に立ちながら負けずに残ったひとつの松、やがて人々の鎮魂の想い、復興を願う心が強い風となり、その松を龍へと変えた。また、当地出身の第9代横綱秀の山雷五郎像、地福寺が残っています。
◇こころのみちの物語「めげない 逃げない くじけない」
震災の際、地福寺の片山秀光住職は、ご本尊である延命地蔵菩薩坐像を背負って逃げ、九死に一生を得た。
愛宕山地福寺は、気仙沼市岩井崎に江戸時代より続く臨済宗妙心寺派のお寺であり、片山住職は国際派ジャズドラマー・バイソン片山氏の実兄である。
地福寺の駐車場は、指定避難場所になっており、一回目の強い地震のあと、三百メートル岩井崎側にある気仙沼向洋高校の一、二年生約百七十人が教職員20名程の誘導で避難してきた。
「寒いね。ご苦労様です。」と片山住職が声をかけて境内の被害を見回っていると、消防署員が「津波が来るぞ! ここは危険だ!」と叫んでいた。高さ6~7mの津波情報は生徒がお寺に到着するころには、10mを越す大津波警報に変わっていた。
先生たちが「住職、上の方に移動します」との言葉を聞いても「まさかここまで・・・」との思いがよぎったが、先生たちの判断は正解だった。
「津波がそこまで来ている!逃げろ!」と消防隊員の緊迫した叫びと同時に、鐘楼の足元の道路に黒い津波が押し寄せてくるのが見えた。
門前の屋敷の木々が身震いするように激しく揺さぶられ、家々が浮き迫るのを目にして「なんだ これは!」と現実の状況が飲み込めないまま後ずさりし、近くの民家の2階に娘と通り合わせた檀家のおばちゃん一家7人でかけあがった。
第二波が沖合にさかまく様子を目にして、これはだめだもっと上に逃げようと、ガレキを掻き分けて階上中学校に向った。避難所になった体育館には、地区内から約二千人が避難していた。
みんな顔面蒼白でお互いの安否を気遣っていた。片山住職自身も岩井崎の沖で白い着物を着て浮かんでいるというウワサになっていたらしい。中学校に行ってみると「ああ! おっさん生きでだぁ!」と驚かれた。
翌日、体育館の掲示板に「和尚は生きている」と無事であることと連絡先を記し、
『めげないで 逃げないで くじけないで頑張ろう』という張り紙を掲げた。これが一編の詩となり、「あいことば」としてCD化され、たくさんの人々を励ます一助となった。
僧侶として、その日からご遺体との対面が始まった。
檀家さんの死亡・行方不明者は百五十一人に達し、どうしようもない極限状況の中で、手を合わせ、ひたすら祈りを捧げた。
お寺は、全国からの多くの支援で復旧した。
被災現場を見て立ち尽くす人々に、手を合わせて祈って頂きたいとの思いで、鐘楼の跡に詩を掲げ、傷んだお地蔵様を並べて「祈りの広場」と名づけた。
震災をくぐり抜けてきたご本尊は、被災地再生への思いをお地蔵様のご縁でつなごうと、東京都墨田区の寺院・回向院で出開帳(一般公開)され、訪れた参拝者は被災地の写真や「カッサパ」の音楽説法に耳を傾け、震災犠牲者の鎮魂や被災地の再生を祈り、手を合わせた。
地域では、有志が「海べの森をつくろう会」を立ち上げ、自然と共生しながら、震災を語り継ぎ、植樹を実践し、豊かな故郷づくりを目指して活動している。
片山住職は、バイソン片山氏と住職ゆかりのミュージシャンとともに音楽説法グループ「カッサパ」を立ち上げ、故郷の人々を励まし続け、被災された方々を慈しみ、一日も早い復興への思いを全国に発信し続けている。
(文責:一般社団法人東北お遍路プロジェクト会員 高橋風人)